耐えることに疲れた人へ
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耐えることを美徳と考えることがままありますよね。では一体耐えるとは何なのでしょうか――その定義から考えてみたいと思います。まず大前提として、ものを考えられない人は耐えることはできません。(理由は後述します)
耐えると言っても、本当に耐え忍んでいるわけではありません。ものを深く考えられない人から見ればあの人は耐えているように見えるだけで、思考できる人にとっては、そもそも耐えること自体が苦痛ではないのです。どういうことでしょうか。耐えているように見えて、実は耐えていない。つまり――耐えていないのに、耐えているように見えるだけです。
辞書を引けば「苦しいこと、つらいこと、嫌なことをじっとがまんする」とあります。確かに、何かを成し遂げようとすると、今のステージよりワンランク上の挑戦が必要で、一時的な苦痛はあるかもしれません。しかし、人は長期間苦痛を感じ続けられるほど頑丈にはできていません。ずっと耐え続けていたら、そのうち折れます。ポキッと。だからこそ、冒頭の答えとして私が思う耐える技術とは、そもそも耐えなくていい状態を作るためにどうするべきかを考えること。これに尽きます。
挑戦して初めて人生は自分のものになると思っています。考え方を少し変えれば、同じ現実でも見え方はいくらでも変わります。それなのに、達観したふりをして「だいたいこんなもんだ」と勝手に人生の閾値を設定してしまう人がいますが、本当にもったいないことです。目標にも挑戦せず、環境に流され、ただ延命だけのために生きる人生――もはや生きた年数にカウントできないのではないでしょうか。どんな逆境でも、最後までやり遂げる意思があってこそ自分の人生を生きたと言えます。一時は不運に見えた出来事も、振り返れば成長のための試練だったとわかる瞬間がきます。そしてこの視点は、勉強していないと気づけないものです。気づける人とは、決してファイティングポーズを解かず挑戦し続ける人のことです。自分自身を振り返ってどうでしょうか?実年齢は若いのに、思考が老人のように「人生こんなもの」になっていないでしょうか。現状を嘆いていても前には進みません。配られたカードで勝負するしかないのです。
そして――諦めから挑戦へと思考を転換できることも才能です。諦め癖がついた人が方向転換できた姿を、私はあまり見たことがありません。
個人はおろか会社全体に変わらない空気が蔓延していることもあります。その責任は100%経営者にあると感じます。従業員は皆、トップの背中を見ています。トップが「あんなもんで良い」という姿勢なら、従業員はその通りに動きます。妥協を流行らせているのは、社長その人です。外部の私がいくら吠えても、組織風土は簡単には変わりません。まさに動かざること山の如しです。腐敗していく組織を見ると残念でなりません。
最近、優しさの基準が大きく変わりました。こうしたら良くなるのにと提案しても、実はそれはお節介なのではないか、と感じることがあります。経営者本人が今の状態のままで良いと意思決定しているなら、外部が変えようとするのは違うかもしれない、と。以前に講演で聞いた言葉を思い出します。
「成果の上がらない人は、成果の上がらないことを頑張ってし続けている」
言うことを聞かないなら、お互い時間の無駄です。むしろ地獄の底へ突き落としてあげるのも、ある種の優しさなのかもしれませんね。そこから這い上がってくるなら、それがその人にとっての正解です。
理由が明確でなければ、耐える必要はありません。耐える必要があるならやればいいですし、理由がないなら甘えてもいいでしょう。正解かどうかは、結果が教えてくれます。耐えるとは苦しみに耐えることではなく、耐えなくてもいい構造を作ることだと、私は思います。

参考文献:耐える技術