監視社会下における意思決定
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マーケティングオートメーションツールなどはリマーケティングに利用されます。私たち個人がインターネット上で起こした行動は監視されていると言えます。さて、監視社会が行き過ぎるとどうなってしまうのでしょうか。
いきなり話は変わりますが、監視社会について考える前に歴史について考えてみましょう。歴史を研究する際、情報源の出どころや規模の大小はともかくとして、その時に書かれた資料を参考にします。ただ、資料に残っていないものもあります。なぜ資料に残っていないかというと、理由は様々ですが意図的に残さなかったこともあるでしょう。なぜ意図的に残さなかったでしょうか。
それは、古今東西人間は戦いを繰り返してきたことは歴史の教科書にも書かれていますが、戦いの勝利者の都合が良いように解釈され記録されてきたというのがその理由の一つです。資料(証拠)がない以上、真実はどうだったのかはその時代を生きていなければもう分かりません。
日々目にするニュースも同様で、発信者の都合に合わせて何らかのバイアスがかかっていることが多いと思った方が良いでしょう。
監視社会に話を戻すと、自分の行動は何らかの方法で監視され利用されています。動画サイトやECサイトからは次々と好みに近しいものが流れてきます。流れに身を任せているとあっという間に時間がなくなったという経験は誰しもあるでしょう。動画サイトやECサイトを見ないよう、自らの意思で判断する力を身につけなければ、情報発信者側の思うようにコントロールされかねません。判断力がなければ他者に操られてしまうと言っても過言ではないでしょう。
判断力を培うためには、多くの言葉を知る必要があります。なぜなら、人間は知っている言葉をもとに物事を考えるからです。自分の感情や考えを表現する力(言葉)がなければ、自分自身で物事を理解するのも難しくなり、他人の意見に流されやすくなるのではないでしょうか。このようなことが積み重なれば、人生が他者にコントロールされることとなります。
何年か前に、ある企業の役員から「多くの人は寝ているのと同じ」という言葉を聞きました。その時はよく理解できませんでした。しかし、今思い返すと「自分で考え判断する力がなければ、他人の人生を歩むこととなる。目を開けて動いてはいても、考えなければ他者に意思決定に委ねる(寝ている)のと同じ。」ということではないかと感じます。
行動が監視され、分析され、もし監督者が望まない行動があれば、与える情報を変えることで望ましい行動へと導かれます。そうならないためには自分で判断し、情報を選択する力を身につける以外にありません。
参考文献:一九八四年