楽しいだけの時間が残す見えない代償

  • 記事

群れの正体とは、往々にして無力な者の集まりであることが多いものです。なぜ群れなければならないのか。その答えはシンプルで、一人では何も成し遂げられないからということになります。
ここで言っておきたいのは、善悪の問題ではありません。大規模なビジネスやプロジェクトは、一人の力では到底達成できないこともあるでしょう。しかしながら、大したことをしようとしていないのに、あるいは意味もなく群れている場合、それは自らの無力さを晒しているようなものです。
繰り返しますが、「群れているからダメ」「一人だから良い」という話ではありません。ただ、せっかく奇跡的に授かったこの命を、群れてばかりでやりたいことすらやれないのだとすれば、それはあまりに勿体ない話だと思います。

波風を立てず、可もなく不可もなく、平均的に100年弱の短い生涯を終えるよりも、「あれはちょっとやりすぎたな」くらいの痕跡をこの世に残してやろう。そう思うのなら、無駄に群れている時間は、少しでも減らしていくべきだと私は考えます。

人は二度死ぬ、という話を聞いたことがあります。一度目は肉体的な死、二度目は誰の記憶からも完全に消えたとき。
前者は避けては通れませんが、後者については回避する余地があります。歴史の教科書に名前が残るような人物たちは、今でも語り継がれ、ある意味生き続けていると言えるでしょう。
肉体が滅んでも、誰からも思い出されなくなることは、やはり寂しいものです。二度目の死をできる限り遅らせるためにも、群れてばかりではいけない。そう思うのです。

とはいえ、私もついつい群れてしまうことがあります。友人や知人からの飲み会の誘いに、つい快く応じてしまうのは珍しいことではありません。こうした、いわゆる「付き合い」や「流れで参加する飲み会」こそ、見えない代償と呼ぶにふさわしいものです。
仮にその飲み会の参加費が無料だったとしても、そこに費やした時間によって、本来できたはずの何かが失われています。それは自分の大切な時間を消費してしまっているということです。
気の合う仲間との飲み会が楽しいことは、百も承知しています。それでも、ただの飲み会に価値”があるかと問われれば、私にはそうとは思えません。
その時間を過ごすことで、人生のQOL(クオリティ・オブ・ライフ)が上がるとは到底思えないのです。

このことに気づいたのは、小学生の頃のある経験でした。テレビで金曜ロードショーを観ていたとき、すでに観たことがある映画を何の気なしに観てしまったのです。2時間ほど映画に釘付けになり、終わったとき、新しい発見もなく、ただ時間を浪費してしまった感覚だけが残りました。
映画が悪かったわけではありません。もし学ぶ目的があり目的的に観ていたのなら、全く違う結果になっていたことでしょう。
ただ、目的なく時間が過ぎるという意味では、楽しいだけの飲み会と何ら変わりません。それはまさに、見えない代償を払ったのだと思いました。

ちなみに、それ以降私はテレビそのものが時間の浪費につながると感じ、10年ほど前にテレビを処分しました。

甘い誘いを断るには勇気がいります。ですが、誘ってくれた相手に嫌われたくないという理由だけで、自分の本音を隠すのは非常に不健全で、悲しい生き方です。
流されてばかりでは、自分のやりたいことは何一つ実現できません。私は、死ぬときに「あれもやりたかったな」と後悔する人生だけは絶対に御免だと決めています。
時間は有限です。そして、年齢を重ねるごとに、その流れの速さを痛感するようになります。
一日があっという間に終わった夜、布団の中で焦りを感じるのは私だけではないはずです。群れて時間を消費している暇など、本当はないのです。人生で一番若い瞬間は、「今、この瞬間」しかないはずです。私はそのことを常に意識しながら、毎日を過ごすようにしています。

やりたいことがあるなら、今すぐやることです。そう、今の今、この瞬間に実行に移すに限ります。それは群れていてはできないことです。

参考文献:群れない。 ケンブリッジで学んだ成功をつかむ世界共通の方法