拡散されるのは事実ではなく空気かもしれない

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昨今──いえ、もはや昨今という言葉すら使う必要がないほどに、社会は常に変化しています。それは、時代の風潮や価値観のうねりによって形づくられてきた結果です。しかしながら、その変化がこれまでの人類(特に過去2,000年にわたる)の営みに合っているのかと問われれば、何となく違和感を覚える向きもあるのではないでしょうか。

インターネットの発達によって、今は誰でも世界に向けて情報発信できる時代です。かつてはメディアという拡声器に載らなければ届かなかった個人の声が、SNSという巨大な拡散装置によって、日常的に世界中に広がるようになりました。いわば、あらゆる個人がオウンドメディアを持ったと言えます。

それ自体は素晴らしい変化かもしれませんが、一方で、自ら考えることをしない人々の存在も目立ってきたように思います。他者の意見に迎合するだけで、自分の考えを持たないまま発信する人がいます。その姿がSNS上で増幅され、目につくようになりました。トレンドに乗る、話題に便乗する──いわば勝ち馬に乗る感覚で、拡散の波に乗れば注目されるわけです。けれども、そこに主体性はあるのでしょうか。意見を持たない、あるいは持てないまま、多数派の影に身を寄せます。この寄らば大樹の陰的な姿勢が広がれば、社会全体がどこか味気なく、深みのない方向に向かってしまうのではないかと思います。

ここで、例としてフェミニズムという思想を取り上げてみます。この思想自体を良し悪しで評価する意図は一切ありません。むしろ注目したいのは、考えずに受け入れる風潮があるがゆえに、極端な解釈がまかり通るケースが少なくないということです。女性化する男性や男性化する女性といった言葉を耳にすることがありますが、それは、もともと存在していた「男性らしさ」や「女性らしさ」といった性別の違いによる良さが、過度なイデオロギー解釈によって曖昧になっている証拠かもしれません。

それでは、かつての「男らしさ」や「女らしさ」とは何だったのでしょうか。たとえば、強さとはコンビニの店員に暴言を吐くことでは、もちろんありません。家族や仲間に危機が迫ったときに、それを守る力を持っていること──それが強さだと思います。優しさもまた、単なる柔和さではなく、大事な人を立て、敬意をもって接する姿勢のことだったはずです。

しかし、こうした価値観も誤った情報の拡散によって簡単に歪められます。何が正しくて、何が誤っているのかの基準自体が急速に変わっていく現代です。私自身が常識として身につけてきたことは、もう過去の遺物になっているかもしれません。だからこそ思います。SNSで耳に心地よいだけの情報に一喜一憂し、誰かの発信に踊らされてるだけはダメだと。恐ろしいのは、稚拙な情報と無自覚な誹謗中傷です。ちなみに、それらは職場の飲み会の話題にも、そっと忍び込んできます(油断なりません)。

外部環境に振り回されているだけでは、それは「ネズミを追いかける猫」「猫を追いかける犬」と同じ構造です(こうなると、私たちは何を追っているのでしょうか…?)。結果には必ず原因があるわけで、情報の洪水に呑まれず自ら考え判断する訓練を積むことは、今の時代を生るうえで、最も重要な知性ではないでしょうか。切り口はフェミニズム思想でしたが、主題はそこではありません。考えを持たずに迎合するという姿勢が、SNS時代の拡散力によって想像以上に増幅され、結果として変な世の中をつくってしまうのではないか──そんな危惧を感じるこのごろです。