コンテンツは分身資産になる

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新卒で入社したゼネコンでは、仕事の関係で新潟や富山といった北陸地方に住むことになりました。業界のスタンダードは、いわゆる転勤族として仕事のある地に出稼ぎに行くスタイルです。徳島生まれの私にとっては、縁もゆかりもない北陸の地。友人どころか、知り合いすら一人もおらず、連休にふらっと地元に帰るというわけにもいかず、それなりのストレスを抱えていたのではないかと思います。とはいえ、ちょうどその頃は北陸新幹線の開業に向けて業界全体が盛り上がっており、現場には活気がありました。その空気感は、若手だった私にとって良い刺激になりました。
そんな折、私が社会人になりたての頃、いわゆるビジネス書というジャンルの本を読み始めるようになりました。たまたま立ち寄った富山の書店で平積みされていた一冊です。手に取ったのが 『人生で大切なことは、すべて「書店」で買える。』 という本でした。タイトルのインパクトは強烈で、今でも鮮明に覚えています。当時の私は、たまには本を読む習慣こそあったものの、読むのは主に小説で、ビジネス書の類には全く手を出していませんでした。しかし、こう見えてミーハーな性格でもある私は、例によってすぐ感化され、その日を境にビジネス書を読むようになりました。

以来、ビジネス書は私にとって人生のターニングポイントで役立ち、強い影響を与えてくれる存在となりました。名言のオンパレードとも言える本たちからは、多くの気づきをもらっています。……ただ、その変化を見た知人・友人からは、「ちょっと頭おかしくなったんじゃないのか?」と心配されたことも一度や二度ではありません。ええ、三度くらいは言われた気がします。

さて、本だけに限らず、ブログ記事、動画、写真——これまでに築いてきたあらゆるコンテンツは腐らない資産になり得ます。資産とは、本来お金を生み出すものです。自分自身も、身体を使ってお金を生み出す資産の一つです。そして、自分そのものではなくても、コンテンツも同様に資産となり得ます。人間の身体は24時間働き続けることはできません。食事、睡眠、そしてたまにはNetflixや温泉など、休息も必要です。一方で、コンテンツは休憩も昼寝もせず、24時間365日働き続けてくれます。(ちょっと羨ましい。)これは、以前の投稿「出生ガチャに左右されない資産形成」でも触れたとおりです。

価値あるコンテンツを発信し続けるには、当然ながら、発信者が教養を深め、知性を磨き続けることが前提となります。情報化社会と言われて久しい今、ネットを開けばまさに情報の洪水です。AIを使えば、必要な情報を必要な量と精度で集めるのも容易になりました。しかし、その中には上質な情報もあれば、ジャンクな情報も混在しています。したがって、情報そのものを取捨選択する能力も重要です。けれども、私が最近感じるのは——もはや情報そのものには大きな価値はないのでは? ということです。

情報をどう掛け合わせるか。自分の脳を通してどんな知恵(アウトプット)に昇華させるかが重要です。価値があるのは、その人を介した再構成の部分にあるように思います。書籍、ブログ、動画、写真、どんな形式であっても構いません。それが上質な知恵の塊であれば、受け取る人には何かしらの気づきがあるはずです。心の琴線に触れるような言葉があれば、それがやがてお金という形に変わっていくこともあるでしょう。

人に影響を与えるアウトプットを出し続けられるよう、自分自身も、学びを止めず、常に勉強を続けていきたいものです。