その表現に個性はあるか?
- 記事
自分自身をどう表現するかによって、経済的な影響は非常に大きなものになります。会社勤めであろうと独立したフリーランスであろうと、どのような立場であっても、表現力がものを言います。表現の仕方は人それぞれで、文章なのか、歌なのか、絵なのか、モノを売ることなのか、教えることなのかなど、世の中にはその手法が数多く存在します。今回は、文章による表現についてフォーカスしてみたいと思います。
書くことに関しては、数万年前の洞窟壁画からすでに始まっていました。時代は進み、今日ではオンライン上で情報発信することが主流となってきました。一概に「書くことで自分を表現する」と言っても、個人としてのオリジナルの考えが最低1%は含まれていなければ、自分を表現したことにはなりません。当たり前の話ですが、自分の考えがゼロであれば、それはもはや他人の考えに過ぎません。
どこかの誰かが言っていた自分の意見や考えと違う言葉を、純度100%で真似して書いてみたところで、それを読む人はどこか薄っぺらく感じてしまい、心を動かされることはないでしょう。言葉では説明できなくても、何となくその薄さに気づくものです。
「世の中すべてオーディションだ」ということを、以前にものの本で読んだことがあります。自分以外のすべての人がオーディションの審査員である、というわけです。審査員の心を動かすことで、自分という存在を覚えてもらうことができます。個性がなければ、ただ他人を真似しただけではその他大勢の中に埋もれてしまいます。真似から始めること自体は間違いではありませんが、その中に自分の意見や考えを1%以上含めてアレンジすることで個性が生まれます。せっかく奇跡的にこの世に授かった命を、人の真似だけで終えるのは少々もったいないと思います。
何も考えずにいると、人は楽な方に流れ、真似ばかりで次第に自分が希薄になっていきます。自己表現とは「希薄になった自分の濃度を高める作業」です。オリジナリティが少なくなっていることに違和感を持つ感覚を失わないようにしましょう。人の言うことを聞くだけの希薄な自分になっていないでしょうか。会社のマニュアルに従って業務をこなすだけになっていないでしょうか。言われた通り、マニュアル通りではオリジナリティは生まれません。つまり、その人の表現にはオリジナリティが0%ということです。
人に倣うだけの仕事なら、誰がその仕事をしても結果は同じで、審査員の記憶に残ることはありません。会社に入って日が浅く、右も左も分からないうちはマニュアルに従ってやり方を覚える時期も必要でしょう。しかし、一旦マニュアルのやり方をマスターした後は、逆にマニュアルからどう逸れるかを考えなければ、個性は死んでしまいます。
マニュアルとは、敢えて逸れるためのものと考えましょう。クライアント企業を観察していると、優れた営業マンほどマニュアルから敢えて逸れ、オリジナリティを表現しています。商談で使うツールの順番を変えたり、使う人物を変えたりと、マニュアルから逸れることを恐れていませんでした。しかし、早合点してもらっては困ります。マニュアルを熟知したうえで敢えて逸れることと、何も知らない新人が適当にやるのとはまったく異なります。後者はただのギャンブルで、ほぼ確実に失敗し、痛い目を見るでしょう。マニュアルは、ほどほどの結果を高確率で出すために作られたものです。完璧にこなしても、あくまで「まあまあの結果」が得られるだけです。審査員の記憶に残るためには、そっくりそのまま真似るのではなく、最短で技術を習得し、自分なりに昇華する必要があります。
また、時間はかかるかもしれませんが、人の心を動かすというゴールに到達する過程で、賢い人ならいずれ必ずマニュアルを活用する時が来ます。登山に例えるなら、普通の人なら選ばない険しいルートです。同じ頂上を目指しても、厳しい環境では精神的なタフさが必要です。険しいルートであるほど、リスクも高まります。厳しい環境に耐えながら、痛い目を見て身体で覚えるのか、開拓されたルートで経験を積むのかの違いです。
さて、書くという自己表現についても、洞窟の壁ではなく、今ではデジタル画面が主戦場です。この環境でどのように個性を出し、審査員の心に残る自己表現ができるか、考えてみましょう。
参考文献:武器としての書く技術