その基準は、誰のためのものですか?

  • 記事

大きさ、重さ、速さ、明るさ——あらゆるものが数値化されていれば、誰でも客観的かつ定量的にその実態を把握することができます。そして、それが良いのか悪いのかは、たいていの場合「平均値」との比較で評価されます。私を含め、多くの人がそうだと思いますが、この比較基準としての平均値に対して、何の疑問も抱かずに受け入れていたのではないでしょうか。果たして平均は、本当に比較対象としてふさわしいのか?
盲目的に平均と比べて一喜一憂する前に、一度立ち止まって検証してみるべきではないか。私はそう思います。

「誰にもフィットしないコックピット」の話を紹介します。人間に焦点を当てて考えれば、平均的な人間など実際には存在しません。そのことを如実に物語っているのが、第二次世界大戦中のアメリカの戦闘機コックピットの設計に関するエピソードです。戦闘機は量産されることでコストが抑えられます。量産のためには、規格を決めそれをラインに乗せて次から次に作っていきます。規格には当初平均値が採用されていました。
中でもコックピットの大きさは、多くのパイロットにとって快適である必要があり、当時は兵士の体格の平均値を基準に設計されていました。ところが、後にこの規格化されたコックピットが墜落事故の一因となっていることが明らかになります。詳しく調査すると、「平均的な身体寸法を持つ兵士」は一人も存在しなかったというのです。結果として、平均を基に設計されたコックピットは、誰にとっても「フィットしない」構造になっていました。全体最適を狙った設計が、むしろ誰にも適さないという皮肉な結果を生んでいたわけです。

次のことについて考えてみてください。「内向的な性格の人」は、本当にいるのでしょうか?身体の大きさだけでなく、性格などの人となりもまた、平均やステレオタイプで語られることがあります。「あの人は内向的だ」「短気な人だ」——そういった言葉は、その人のある一部分だけを切り取って、全体像にラベルを貼るような行為です。仮にある場面で、あなたが「内向的」と判断されたとしても、それは環境によって一時的に現れた特性に過ぎないかもしれません。性格というのは、時間・場所・相手など、取り巻く環境次第でまったく異なる側面を見せるものです。従って、異なる環境であれば、結果も異なります。人格に固定された本質があるとは限りません。

テレビや新聞で報じられる事件の容疑者について、「まさか、あんなに良い人が…」という知人のインタビューを聞いたことはないでしょうか。これは、人が環境によっていかようにも変わることの証拠です。一部分だけを見て、その人のすべてを決めつけるのは、木を見て森を見ずの典型です。実態を正確に捉えることなど到底できません。

これは教育の話にも通じます。私たちは長い間、「決められた時間内に成果を出す」ことを求められてきました。試験時間、進学時期、卒業時期などがそうです。しかし、学ぶスピードは人によって異なります。本来大切なのは課題を解くことであって、解答に要した時間の長短に重きを置くのは、本質がずれているとも言えます。つまり、試験時間や進学時期は人によって違っていてもいいはずです。
もちろん、時間は尊く重要なリソースです。有限だからこそ大切にすべきものだという点は変わりません。ですが、何に時間の価値を置くかは人それぞれ、置かれた環境によっても違ってくるということです。

平均とそれ以外について話を戻すと、個性がバラバラな人間を決められた基準に当てはめようとするのはナンセンスです。個人をシステムに合わせるのではなく、システムを個人に合わせてこそ、真のパフォーマンスが発揮されます。他人と比べることに本質的な意味はありません。比べるべきは、過去の自分です。昨日の自分より、今日の自分が成長しているか。その一点にこそ、意味があると思います。そしてその成長の度合いも、大きく環境に左右されます。もし、あなた自身が最も成長できる環境を構築できたなら、驚くほどの成果を発揮できることは間違いありません。

参考文献:平均思考は捨てなさい