「正しい」は誰が決めたのか
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『逆説の日本史』シリーズをご存じの方も多いと思います。私も読者の一人として、シリーズの最初の巻からずっと拝読させていただいています。第24巻『明治躍進編』を読んだのが2020年10月のことでした。その時すでに第25巻『明治風雲編』は刊行されており、私の手元にもありました。そして2025年5月現在、ようやく第27巻『明治終焉編』まで読み終え、つい先ほど第28巻『大正混迷編』をAmazonでポチったところです。読書スピード、もうちょっと上がらないものでしょうかね。
余談はさておき、本シリーズは第1巻の「日本の夜明け」から始まり、日本史を逆説という視点で捉えながら、時代を追って展開されていく連載です。第24巻に差し掛かったところで、明治期の佳境に入ってきた印象です。
では、何が逆説なのか。著者・井沢元彦氏によれば、我が国の歴史学には研究姿勢そのものに大きな欠如があるといいます。氏はその欠如を、以下の3つに整理しています。
- 資料絶対主義
- 宗教の無視
- 権威主義
このあたりの詳細はぜひ本書に譲りたいところですが、要点を一言でいえば、「こうあるべきだという固定概念に囚われるな」ということに尽きると思います。
学問や研究に限らず、同じことに長く携わっていると、いつの間にか妙な常識が頭に染みついてしまうものです。だからこそ、定期的にゼロベースで考え直す。逆の立場から見てみる。そういった思考習慣の重要性を、本シリーズは改めて気づかせてくれます。とはいえ、現実には社会生活を送る中で、先に挙げたような「三大欠如」的なものに抗うのが難しい場面も少なくないでしょう。組織の中で生きる以上、理屈だけでは済まされない現実というものが確かに存在します。
私自身も、かつて企業という組織に属していましたので、風土に従わざるを得ないことが少なからずあったことは、身をもって経験しています。もしどうしても「これはおかしい」と思うことがあった場合には、異論を唱えるようにしていました。ただし、一つだけ自分にルールを課していたことがあります。異論を唱える際は、必ず自分なりの代案を持っていること。そして、その提案が受け入れられなければ、潔く自分が折れること。意見を持たなければ、ただの評論家です。かといって、持論を貫き通すだけでは、組織への宣戦布告と捉えられても仕方がありません。そんな人間はいずれ干される……というのが、まあ世の中の相場です。
組織で働いている以上、100%組織の看板を背負わせてもらっているという自覚のもと、最終的にはその意思決定に従うことです。それが、組織で生きる上での覚悟でもあると思います。自立した大人がわがままを言うのではなく、従えないなら去るという選択を取るしかないのです。
さて、ここまでやや脱線気味に話しましたが、『逆説の日本史』シリーズから私が学んでいるのは、自分で考え、行動することの大切さです。過去の偉人たちは、大きな壁にぶつかった時、どのように乗り越えていったのかなど。歴史は、そのヒントを惜しみなく与えてくれる存在だと思います。答えがすぐに見えない。そして、解決策が一つとは限らない——そんな世の中だからこそ、最善策を追い求め続ける姿勢だけは、手放してはならないと感じます。
最後に、24巻『明治躍進編』を読んでいて強く印象に残った一節をご紹介して締めくくりたいと思います。
「言うまでもなく学問の目的は心理を追求することにある。それを担うはずの学者がこともあろうに、その学問を国民を騙すための手段として用いることは許しがたい暴挙であり、そんな人間は学者の名に値しないはずだ。」
固定概念にとらわれず、あるがままを見ること。それがどれほど大事かを、改めて実感させられる言葉でした。
